個人M&Aでネット事業を買う手順と注意点
会社員を続けながら、あるいは独立の一歩目として、すでに収益が出ている事業を買う。「個人M&A」という言葉で語られるこの選択肢を調べる人は少なくありません。売買の場には、数万円から数千万円の価格で、ブログやメディア、YouTube チャンネル、小さな Web サービスやアプリが売りに出ていて、ゼロから立ち上げるより早く「収益のある状態」から始められる、というのが魅力として語られます。
ただ、事業を買うことは、中古の商品を買うこととはまったく違います。買った瞬間から、売り手が抱えていた数字の癖、名義の問題、規約のリスク、引き継げない属人性まで、まとめて自分のものになります。しかも、個人の買い手には、会社の買収のような専門家のチームが付いているとは限りません。
この記事では、個人がネット事業を買うときに、言葉の整理から、お金の用意、案件の探し方、買う前の確認と契約、買った後の税金までを、法令と公的機関の資料に書かれている事実に沿って順に整理します。
個人M&A・スモールM&A・マイクロM&Aは法律の用語ではない

まず言葉の整理です。「個人M&A」「スモールM&A」「マイクロM&A」は、いずれも法令で定められた用語ではありません。e-Gov 法令検索でこれらの語を検索すると、該当する法令は0件です(そもそも「M&A」という語が法令の本文には出てこず、法律は「合併」「事業の譲受け」といった言葉を使います)。
実際の使われ方を見ると、どれも取引の規模や買い手の属性を表す呼び方です。会社員や個人事業主のような個人が買い手になる取引を「個人M&A」、比較的小さな規模の事業の売買を「スモールM&A」、さらに小さな、数十万円から数百万円の規模の取引を「マイクロM&A」と呼ぶことが多く、境目の金額に決まりはありません。言葉の違いにこだわる必要はなく、大事なのは、自分が買おうとしているものが「会社」なのか「事業」なのか、という区別のほうです。
個人がネット事業を買う方法には、会社ごと買う株式の取得と、サイトやチャンネル、アプリといった事業を構成する資産を個別に買う事業の譲受けがあります。売り手が個人の事業なら、そもそも売り買いする株式が無いので、事業の譲受けになります。会社ごと買えば、その会社が抱える過去の債務や税務のリスクも引き継ぎますが、事業の譲受けなら、契約で決めた資産と権利だけを受け取ります(事業譲渡と株式譲渡の違いは別の記事で詳しく扱っています)。
個人の買い物に向く事業と、買ってはいけない事業

ネット事業が個人の買い手に向いている理由は、店舗も在庫も従業員も持たない事業なら、買った後の運営を一人で引き受けやすいことにあります。一方で、ネット事業ならではの「引き継げない価値」もあり、そこに価格の大半が乗っている事業は、個人が買うべきではありません。目安になるのは次の四つです。
- 人に付いている価値。運営者の顔や声、名前、文章の癖で読者や視聴者を集めている事業は、運営者が替わった瞬間に価値が落ちます
- 規約のすき間に立っている価値。検索エンジンやプラットフォームの規約の灰色の部分で稼いでいる事業は、規約の変更や取り締まり一つで収益が消えます
- 裏付けの取れない数字。アクセス解析や収益の管理画面を見せてもらえない、期間を切り替えて見せてもらえない事業は、数字そのものを信じる根拠がありません
- 移せない名義に乗った価値。収益の受け取り口や主要な外部サービスのアカウントが、規約上ほかの人に移せない形で売り手の個人名義になっている事業は、渡されるはずのものが渡りません
逆に、運営の手順が書き出されていて、収益の出どころが複数あり、名義を正規の手続きで移せる事業は、個人が買って運営を続けやすい事業です。
お金の用意は、価格の外まで見積もる

予算を考えるとき、つい売り出し価格だけを見てしまいますが、事業を買うには価格の外にもお金がかかります。売買の場や仲介を使えば手数料がかかり、契約書を専門家に見てもらえばその費用がかかり、買った直後は収益の受け取り口の切り替えまで収益が入らない期間ができることもあります。運営を続けるためのサーバー代や外注費も、買った月から自分の負担です。価格に加えて、これらを数か月分まかなえる資金を用意しておきます。
価格が大きくなる場合は、融資も選択肢になります。日本政策金融公庫の「事業承継・集約・活性化支援資金」は、ご利用いただける方として「安定的な経営権の確保等により、事業の承継・集約を行う方および事業を承継・集約される方」などを挙げ、資金のお使いみちを「事業承継を行うために必要な設備資金および長期運転資金」などとしています。対象や条件、利率は区分ごとに細かく定められていて審査もあるので、使う場合は公庫の案内を読み、窓口で相談しながら進めることになります。
案件の探し方と、仲介を選ぶときの手がかり

ネット事業の案件の探し方は、大きく三つあります。売り手と買い手が直接つながる場(SNS や知人づてを含む)、売り手が案件を掲載して買い手が交渉を申し込むマッチングサイト、そして間に入って条件の調整まで担う仲介やフィナンシャル・アドバイザーです。型ごとに手数料のかかり方が違い、それと引き換えに、代金の保全や引き渡しの段取りを誰が見るかが変わります。
仲介やフィナンシャル・アドバイザーを選ぶときの手がかりとして、中小企業庁の「M&A支援機関登録制度」があります。中小企業庁の公表によると、この制度は中小M&Aガイドラインの遵守の宣言などを登録の要件として、M&A 支援を行うフィナンシャル・アドバイザーや仲介業者を登録するもので、2025年10月20日時点で3,046件(法人2,339件・個人事業主707件)が登録されています。制度の事務局のホームページでは、登録機関を検索できるデータベースと、各機関の手数料の体系が公表されています。登録されていることが質を保証するわけではありませんが、ガイドラインを守ると宣言しているか、手数料の考え方を事前に公表しているかは、比べる材料になります。
買う前の確認と、契約で決めること

案件が見つかったら、買う前に中身を確かめます(デューデリジェンス)。個人の買い手が最低限見ておきたいのは、収益とアクセスの数字を管理画面で直接見ること、運営にかかっている手間と経費を書き出してもらうこと、そして渡されるはずのアカウントや権利が、本当に移せる状態にあるかを確かめることです。数字の見方の落とし穴はGoogle Analyticsだけ見て買うなの記事で、アカウントの権限の棚卸しは誰の権限も剥がせない事業を買う怖さの記事で詳しく扱っています。
渡されるものが本当に移せるかは、事業の種類によって確かめ方が違います。YouTube チャンネルなら、ブランドアカウントにリンクされていて、所有者の地位を正規の手順で移せるか(YouTubeチャンネルの購入の手順を参照)。アプリなら、App Store や Google Play の公式の移管の条件を満たしているか。Web サイトなら、ドメインとサーバー、広告やアフィリエイトのアカウントが、それぞれ誰の名義で、どの手続きで移せるか。種類ごとの移し方を先に確かめておくと、契約で書き出す譲渡の対象もはっきりします。
確認が済んだら、契約で次のことを決めます。
- 譲渡の対象。ドメイン、コンテンツ、ソースコード、各アカウント、データと、何を渡すのかを資産ごとに書き出す
- 表明と保証。売り手が示した数字や権利の状態が正しいことを売り手に約束してもらい、違っていた場合の扱いを決める
- 代金の支払い方。代金を第三者に預け、引き渡しの確認(検収)が済んでから売り手に渡る仕組みを使う
- 競業の禁止。売り手が同じ事業を始めないことの範囲と期間
最後の競業の禁止は、法律にも定めがあります。商法第16条(個人の商人)と会社法第21条(会社)は、事業を譲渡した側は、別段の意思表示がない限り、同一の市町村と隣接する市町村の区域内で、譲渡した日から20年間は同一の事業を行ってはならない、としています。ただ、ネット事業では「同一の市町村」という区切りがほとんど意味を持ちません。売り手が同じジャンルのサイトやチャンネルを新しく始めないことを、範囲と期間を決めて契約に書いておく必要があります。
買った後の税金と手続き

事業を買った後は、払った代金をどう経費にしていくかが問題になります。税務では、営業権は減価償却資産の無形固定資産に含まれ(所得税法施行令第6条第8号カ・法人税法施行令第13条第8号ヨ)、耐用年数は5年(減価償却資産の耐用年数等に関する省令 別表第三)、償却の方法は定額法です。個人が業務のために取得した営業権も同じです。払った代金を、ドメインやソフトウェア、コンテンツ、営業権といった資産にどう分けるかで、経費にできる時期が変わるので、契約の段階で内訳を決めておくことが、そのまま税金の準備になります(資産の内訳の考え方は、売り手の側から見た記事で詳しく扱っています)。
買い手が会社の場合は、追加で二つの点があります。一つは、会社が法人から事業と、その事業の主要な資産・負債のおおむね全部を譲り受け、受け取った資産・負債の時価純資産を超える代金を払った場合は、その超える部分を資産調整勘定として60か月で均等に損金にすることです(法人税法第62条の8)。売り手が個人の場合は、この扱いの対象になりません。もう一つは、株式会社が他の会社の事業の全部を譲り受ける場合は、原則として株主総会の承認が要ることです(会社法第467条第1項第3号。対価が純資産額の5分の1以下なら不要とする例外があります)。
手続きの面では、受け取ったアカウントやサービスの名義を自分のものに切り替え終わるまでが、取引の一部です。名義が売り手のまま運営を始めてしまうと、後から移せなくなったり、売り手の都合で止められたりする余地が残ります。
個人M&Aは、事業をゼロから立ち上げる時間を、お金で買う選択です。だからこそ、買う前の確認と契約、そして買った後の名義と税金までを、一つの計画として最初に組み立てておくことが、買ったものを手元に残すための条件になります。
買おうとしている事業の技術面の状態を、ソースコードやインフラまで含めて確かめたいときは、技術デューデリジェンスの考え方と確認の項目が参考になります。