アプリ売却の相場を決めるIAP比率
アプリ事業の売却相談で最初に飛んでくる質問は、だいたい決まっています。「うちのアプリ、いくらで売れますか」。そして、その質問に添えられている数字も、だいたい決まっています。月間の売上と、月間の利益。この2つだけです。
ところが、同じ「月間利益50万円」を提示した2本のアプリに、買い手がまったく違う金額を出してくることがあります。ユーザー数も、開発規模も、リリースからの年数も似ている。それなのに、提示額に倍以上の開きがつく。売り手からすれば理不尽に見えますし、実際「買い叩かれた」という受け止め方をされることも少なくありません。
ただ、その開きを作っているのは、買い手の善意でも悪意でもありません。利益の額でもありません。その50万円が、どこから来ているかです。
この記事では、アプリ売却の相場が「月間利益の何ヶ月分」という一本の物差しでは決まらない理由を、収益構成という角度から分解していきます。
「月商の何ヶ月分」という物差しは、アプリでだけ噛み合わない

WEBサイトのM&Aでは、価格の目安を「月間営業利益の何ヶ月分」で語る慣習が定着しています。個人・小規模のサイト売買なら24ヶ月分あたりが会話の出発点になり、そこから成長性やリスクで上下させていく。乱暴な物差しですが、売り手と買い手の共通言語としては十分に機能してきました。
この物差しをそのままアプリに持ち込むと、途端に噛み合わなくなります。理由は、アプリの売上が「自分で値段を決めた売上」と「他人が値段を決めた売上」の混ざり物だからです。
サイトの広告収益だって他人が値段を決めているじゃないか、という反論はあり得ます。そのとおりです。ただサイトの場合、収益源が広告一本、あるいはアフィリエイト一本であることが多く、混ざっていない分だけ倍率の議論が単純で済みました。アプリはそうではありません。1本のアプリの中に、月額サブスクリプション、コイン購入、動画リワード広告、バナー広告が同居しているのが普通です。
つまり、アプリの「月間利益50万円」は、性質のまったく違う4種類の売上を足し算して、そこから経費を引いた残りです。足し算した時点で、それぞれの寿命も、安定性も、プラットフォームへの依存度も、全部混ざって見えなくなっています。
だから買い手が最初にやる作業は、決まっています。この足し算を、解くことです。IMに記載された「月間利益50万円」を種別ごとに割り戻し、そこから先の交渉は、割り戻したあとの内訳に対して行われます。売り手が総額で語り続けている間、買い手はとっくに別の話をしているわけです。
同じ1万円でも、サブスク・IAP・広告では寿命が違う

では、種別ごとに何がどう違うのか。ここが本題です。
自動更新サブスクリプション ── 来月の売上が、今日わかる
月額・年額の自動更新サブスクリプションは、アプリの収益種別の中で最も高く評価されます。理由は身も蓋もなく単純で、来月入ってくる金額のかなりの部分が、今日の時点で確定しているからです。
現時点で有効なサブスク契約が3,000件あり、それぞれの更新日と単価が分かっていれば、来月の更新予定額は計算できます。もちろん全員が更新するわけではないので解約率で割り引く必要はありますが、それでも「今月もゼロから積み上げる」のとは前提がまるで違います。
買い手の目線でいえば、これは在庫を持ったまま引き渡される事業に近い。買った瞬間から、既に走っているキャッシュフローがある。倍率が高くつくのは、感情ではなく算数の話です。
さらに、手数料の面でも優遇があります。AppleとGoogleはいずれも、自動更新サブスクリプションに対して標準(30%)より低い15%の区分を用意しています。Appleは同一ユーザーの継続契約が1年を超えた分から、Googleはサブスクリプション収益に対して、という違いはありますが、方向は同じです。長く続いている契約ほど、売上に対する手残りが良くなる。継続課金は、続けば続くほど利益率そのものが改善していく構造になっています(適用条件と料率はプラットフォーム側の改定対象なので、現行の区分は必ずコンソールの実データで確認してください)。
消費型IAP ── 毎月ゼロから埋め直す売上
同じアプリ内課金でも、コイン・ジェム・アイテムのような消費型のIAPは、性質が正反対です。今月の10万円は今月課金してくれたユーザーが作った10万円であり、来月の10万円は、来月またゼロから作らなければなりません。
サブスクが「解約されなければ続く」のに対して、消費型IAPは「課金されなければ続かない」。デフォルトの向きが、逆です。
ここが、「IAP比率が高いから安心」という話にならない理由です。IAPという一語の中に、性質が真逆の2つが同居しています。買い手はここを必ず割ります。というより、ここを割らずに値付けする買い手がいたら、その人はたぶん値段を間違えています(そして、その間違いはたいてい買収後に発覚します)。
広告 ── 単価の決定権が、自分の手元にない
広告収益には、上の2つと決定的に違う点があります。単価を自分で決められません。
サブスクなら「月額980円にする」と決めるのは事業者です。消費型IAPも同じで、コイン120個を610円にするかどうかは自分で決めます。ところが広告は、単価(eCPM)を決めているのは広告主の入札であり、その入札の強さは、景気にも、季節にも、プラットフォームの仕様変更にも動かされます。
そして厄介なのは、この変動が事業側の努力とほぼ無関係に起きることです。何も変えていないのに、年が明けたら単価が落ちた。iOSのトラッキング許諾の仕組みが変わってからターゲティング精度が下がり、単価も一緒に下がった。アプリを運営していれば、誰でも心当たりのある話だと思います。
努力で守れない数字は、買い手にとって「約束できない数字」です。そして約束できない数字には、約束できないぶんの値段しかつきません。
買い手が見ているのは「利益の額」ではなく「利益の質」

ここまでを、買い手の頭の中にある採点表として整理します。買い手は、利益の内訳を次の4つで採点しています。
- 予測可能性: 来月の売上のうち、今日の時点で何割が確定しているか。サブスクは高く、消費型IAPは中程度、広告は低い
- 単価の決定権: 値段を自分で決められるか。決められないなら、その売上は他人の判断で上下し続ける
- プラットフォームへの露出: 規約変更やアカウント判定によって、一撃でゼロになる可能性があるか
- 再現性: 売り手が抜けたあとも、同じ数字が出るか
このうち最後の「再現性」は見落とされがちですが、実務では猛烈に効きます。広告比率が高い事業ほど、実は数字が運営者の腕で作られています。メディエーションの設定、フロアプライスの調整、広告面の配置と頻度のチューニング。この腕は、コードにもドキュメントにも書かれていません。だから引き継がれない。買った瞬間から数字が落ち始めるという現象の正体は、多くの場合これです。
サブスクの数字は、誰も触らなくても同じように更新されます。広告の数字は、誰も触らないと落ちます。この差が、そのまま倍率の差になります。
広告比率が高い事業が割り引かれる、身も蓋もない理由

誤解のないように書いておくと、広告収益を軽んじたいわけではありません。広告だけで大きく育っているアプリは実在しますし、その運営には確かな技術と経験が必要です。それでも買い手が広告収益を割り引くのには、感情ではない理由が3つあります。
第一に、単価の季節性です。 年末商戦期に上がり、年明けに落ちるという波が、業界全体として存在します。ここで問題になるのは波そのものではなく、売り手が「直近3ヶ月」の数字を提示してきたときに、その3ヶ月がどこに当たっていたかです。11月・12月・1月の平均と、2月・3月・4月の平均では、まったく同じ事業がまったく別の顔になります。だから買い手は12ヶ月を要求します。要求しない買い手がいたら、単に慣れていないだけです。
第二に、下振れしたときに事業側が打てる手がないことです。 サブスクの解約率が悪化したなら、オンボーディングを直す、価格を見直す、機能を足すという打ち手があります。しかしeCPMが落ちたとき、事業者にできることはほとんどありません。広告面を増やせば単価の下落を数で補えるかもしれませんが、それはユーザー体験を削って売上を維持する行為であり、来年の首を絞めます。
第三に、そして最も重いのが、アカウント都合で全額がゼロになる可能性です。 広告収益は、広告ネットワークのアカウントが生きていることを前提に成立しています。そのアカウントが何らかの判定で停止されれば、収益は翌日から消えます。Adsense一発BANで収益が消滅する構図は、ウェブに限った話ではありません。
そして、この3つを支えている土台そのものが、他人のものです。広告SDKも、メディエーションの配信ロジックも、単価を決める入札の仕組みも、すべてプラットフォーム側にあります。自分の事業の収益が他人の基盤の上に載っているという意味では、APIの利用停止で事業が止まる構図と、まったく同じ形をしています。
IAP比率が高ければ安全、という話でもない

ここまでを「継続課金の比率を上げれば高く売れる」と読まれてしまうと、半分しか伝わっていません。継続課金の比率が高くても、減点される事業はあります。
一つ目は、課金者の集中です。 上位数%のユーザーが売上の大半を作る構造は、ゲーム系のアプリでは珍しくありません。月間利益50万円が3,000人の少額課金で成り立っているのか、40人の高額課金で成り立っているのかは、同じ50万円でもリスクの桁が違います。後者は、買い手から見れば3,000人の顧客がいる事業ではなく、40人の顧客がいる事業です。その40人が飽きたら終わりますし、飽きるかどうかは誰にも制御できません。
二つ目は、解約率の見せ方です。 「サブスク会員1万人」という数字の中に、無料トライアル中のユーザーが混ざっていることがあります。混ざっていれば、その1万人は課金者数ではありません。これはMRRの水増しとしてSaaSの世界で散々やられてきた手口と同じ構造で、アプリでも普通に起きます。有料転換率と、転換後の6ヶ月継続率。この2つが出てこない「会員数1万人」は、数字として意味を持ちません。
三つ目は、非自発的な解約です。 カードの有効期限切れや残高不足による失効は、ユーザーが辞めたいと思っていないのに発生する解約です。猶予期間の設定、再試行、通知といったリカバリの仕組みを作り込んでいるかどうかで、継続率の見え方は変わります。ここが作り込まれていない事業は、買い手からは「伸ばしろがある」とも読めますが、同時に「今の数字は雑な運用の上にたまたま乗っている」とも読めます。どちらに転ぶかは、他の項目次第です。
要するに、比率だけを見て安心するのは、総額だけを見て安心するのと同じ間違いです。粒度が一段細かくなっただけで、思考停止の構造は変わりません。
売り手が交渉に入る前にやるべき、収益の分解

ここまで読んで「じゃあ何を用意すればいいのか」となった方のために、順序を整理します。特別な作業はありません。ほとんどはコンソールが出してくれます。
1. 種別ごとに分けて、12ヶ月分を出す
App Store Connect と Google Play Console は、売上を課金種別で分解して出力できます。サブスクリプション、消費型、非消費型。広告は別のコンソールになりますが、こちらも同様です。この分解を、直近12ヶ月ぶん用意してください。エクセルで手作りする必要はありません。
そして、この分解を自分から出せる売り手は、それだけで信用されます。逆に「全部込みで月商◯◯万円です」としか言えない売り手は、隠す意図がまったくなくても、隠していると疑われます。M&Aの交渉で、説明できないことと隠していることは、区別されません。
2. 手数料控除後(手取り)の数字で出す
ストアの手数料には、標準の30%と、条件を満たしたときの15%という段階があります。ここで大事なのは、総額(ユーザーが払った金額)ではなく、実際に振り込まれる手取り額で提示することです。総額で出せば、買い手は必ず控除後に引き直します。そして、その引き直し作業を買い手にやらせた時点で、その売り手が出す数字は全部疑われます。
3. 継続課金の「残高」を出す
現在有効なサブスク契約の件数と、その更新スケジュール。ここから計算される来月の更新予定額が、あなたの事業の売上の下限です。これは在庫証明のようなもので、売り手が持っている最強の材料でもあります。継続課金を積み上げてきた事業者は、この1枚を出すか出さないかで、交渉の景色が変わります。
4. 広告はeCPMの12ヶ月推移とネットワーク構成を出す
季節性を隠さないでください。隠しても12ヶ月出せば分かりますし、隠したと判明したときの損害は、隠して得られたはずの金額を軽く超えます。単一のネットワークに依存しているのか、メディエーションで複数を回しているのかも、併せて明示します。
買い手が検証すべきことと、倍率への織り込み方

技術的DDの中で、収益構成の検証は最も早い段階に置くべき項目です。ここが読めていないと、そのあとの分析すべてが「何を分析しているのか分からない」状態になるからです。
検証は、資料ではなく画面でやってください。App Store Connect、Play Console、そして広告ネットワークの管理画面を売り手に開いてもらい、その場で期間を指定して集計する。IMのエクセルとコンソールの実データが一致するかを確認し、ズレていたらズレの理由を説明してもらう。悪意の有無にかかわらず、ズレは高い確率で存在します(集計期間の定義、返金の扱い、為替のレート日。悪意がなくてもズレる理由はいくらでもあります)。
特に見るべきは、以下の5点です。
- サブスクの更新予定: 現在有効な契約数と更新スケジュール。ここが来月の売上の下限になる
- コホート別の継続率: 「平均継続◯ヶ月」ではなく、入会月ごとに何ヶ月目で何%残っているか。平均は、直近の悪化を過去の好調で覆い隠せる
- 課金者の分布: 上位1%・5%・10%が売上の何%を占めるか
- 広告のeCPM推移: 12ヶ月。単一ネットワーク依存かどうかも併せて
- 手数料の適用区分: 現在15%が適用されているのか、30%なのか
最後の項目は地味ですが、買い手にとっては直接の損得になります。ストアの手数料優遇には、デベロッパーアカウント単位の年間収益規模を条件にする区分があります。つまり、既に大きなアプリ事業を持っている買い手が買収した場合、買い手のアカウント側の規模によって、同じアプリの手数料区分が変わり得るということです。売り手の手元では15%だった手数料が、買い手の手元では30%になる。アプリは何も変わっていないのに、買った瞬間に利益が削れます。売上構成の分析とセットで必ず確認すべき論点です。
そして、これらを倍率にどう織り込むか。結論としては、1つの倍率で全部を括るのをやめることです。継続課金の部分には高い倍率を、消費型IAPには中程度を、広告には低い倍率を当てて、足し合わせる。この方が、双方にとって説明可能な数字になります。
売り手が「24ヶ月分だ」と言い、買い手が「12ヶ月分だ」と言って平行線になる交渉の大半は、実のところ倍率の意見が食い違っているのではありません。倍率を掛ける対象を分解していないだけです。分解すれば、多くの場合は着地します。継続課金の部分については売り手の言い分が正しく、広告の部分については買い手の言い分が正しい、ということが普通に起きるからです。同じ事業の中で、両方が同時に正しい。分解しない限り、この事実には永遠にたどり着けません。
数字の大きさより、数字の続き方

アプリの売却で、月商の話から始まるのは自然なことです。作った本人にとって、その数字は何年分かの努力の結晶ですし、誇っていい数字でもあります。
ただ、買い手が本当に買っているのは、今月の50万円ではありません。来月の50万円と、その次の月の50万円です。今月の数字は、その将来を推し量るための材料にすぎない。だから、同じ50万円でも「来月も高い確率で入ってくる50万円」と「来月またゼロから作り直す50万円」に、同じ値段はつきません。
これは、売り手にとって不利な話ではありません。むしろ逆です。何年もかけて解約率を1ポイントずつ削り、継続課金の土台を作ってきた事業者が、広告で同じ利益を出している事業と同じ倍率で括られるのは、明らかに不当です。そして「月商の何ヶ月分」という一本の物差しで語られる限り、その不当は不当のまま通ってしまいます。
だから、収益の分解は買い手のためにやる作業ではありません。売り手が、自分の積み上げてきたものを正当に評価してもらうための作業です。買い手に言われてから出す資料と、こちらから最初に出す資料では、まったく同じ内容でも意味が変わります。前者は釈明で、後者は主張です。
アプリ売却の相場は、月商の何ヶ月分という一本の線で決まっているわけではありません。その線は、あなたの収益がどう成り立っているかによって、上にも下にも動きます。動かせる余地がある、ということです。売却を考え始めたら、まずコンソールを開いて、自分の売上を種別ごとに分けてみてください。あなたのアプリが本当はいくらの事業なのかは、その分解の中にしか書かれていません。
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